こんな気持ちいでいられたら

ロートル病理医。地味な医者ですが、縁の下の力持ちでいることに誇りを持っています。

日本の新幹線はかっこいい

都会の朝は殺風景

新幹線は、やっぱり速い。

夜、暗い中を走っているから余計にそう感じるのかもしれない。

明日、名古屋で学会があるため、前日の夜に名古屋入りした。

この記事も、その夜に名古屋のホテルで書いている。
明日の夜、学会でへとへとになった状態で記事を書くのは難しいと思い、今のうちに仕上げておこうというわけだ。

とはいえ、東京駅でビールと駅弁を楽しんでしまったので、今は少しほろ酔い気分。名古屋に着いてからホテルまで無事にたどり着けるかが、密かな心配でもある。

それにしても、新幹線は本当に速い。
東京から名古屋まで、わずか1時間半。

これで十分では? と思うと、リニア新幹線の必要性すら疑ってしまう。

そういえば、少し前にブラッド・ピット主演の『ブレット・トレイン』という映画があった。

新幹線を舞台にした作品で、かなりスタイリッシュだった。

あれを見ると、あらためて日本の新幹線ってかっこいいなと思う。

 

ところで、事故後すぐに埋められてしまった某国の高速鉄道車両、あれが日本の新幹線そっくりの塗装だったことを覚えている人も多いだろう。

あの国から大挙してやってくる観光客は、日本で走っているその姿を見て「自国の電車がなぜここに?」と思ったりするのだろうか。そして、それがもともと日本の技術だったと知っているのだろうか?

過去数十年、日本からの技術流出は数多く起こった。

もちろん、国際協力という側面もあるが、結果的に“持っていかれた”と感じることも多い。最近になってようやく危機感が高まりつつあるが、後の祭りとも言える。

もしリニアが完成したら、また世界中から注目されるだろう。できれば、今度こそ“バレないように”しておきたい。

なんて、半分冗談ではある。

 

AIは、そもそも人間の知の賜物

大雨で気温が下がり気持ちの良い朝

最近、このブログを含め、原稿やメールの文章チェックをAIにやってもらうことが多い。
日本語には英語のようなスペルチェックがないので、以前は困っていたが、その必要がなくなったというのは、日本語を使う人間にとってこの上ない朗報だ。

ところで、そのAI。
「AIは人間からの質問に対して、無理にでも答えようとするから、インチキを言うことがある」と言われることがある。

たしかに原稿の草稿を壁打ちしていると、AIの言っていることが眉唾ものに聞こえるときがあり、そんなときは、別のAIを使って確かめてみる。
今や人間の能力をはるかに超えているので、私が心配するぐらいのことなど、どのAIも平気でクリアしていて、みんな似たような回答に落ち着く。

だから誤回答はなさそうなのだが、それでもやはり、心配になる。

また、先日、私が医学的な質問をしたところ、AIは「慎重になって」と答えを避けた。こういう場面では、無理はしないらしい。

 

そこで、思った。
人間も年を重ね、人生経験が増えると、「なんでも知っていなければならない」という雰囲気に追い込まれ(大抵は自意識過剰というかそいったものだが)、つい無理に答えを作ってしまうことがある。
落語に出てくるご隠居さんのようなものだ。知ったかぶりといえばそうかもしれないが、これはAIがときとして間違った答えを出すのと、同じなのだろうか?

人間は感情があるから、体面を気にしたり、見栄を張ったりする。だからつい嘘を答えてしまう。
でも、AIには見栄がない。ならば、無理に答える必要もないのでは?
そうだとすると、AIは人間とは別の次元でインチキ回答をしていることになるのではないか。

そんな疑問を、当のAIにぶつけてみたら、こんな答えが返ってきた。

 

『人間が知らないのに何か答えるとき、それはしばしば“見栄”や“責任感”、あるいは“気まずさの回避”といった感情や社会的プレッシャーによるものです。一方、AIが答えを出すのは、感情とはまったく無関係。どちらかといえば“沈黙を避けるように設計されているから”です。つまり、AIが無理にでも答えるとしたら、それは“見栄”ではなく、“プログラムされた確率の推論”によるものだと言えます。』

 

うーん、「沈黙を避ける」とは、なんなのか?
場繋ぎというか、質問者への忖度というか、そんなものだろうか、もしかするとAIには確固たる方針というものは、実はないのかもしれない。

そう考えると、AIもけっこう人間的で、いいところがある。
そのわけは、AIの知識や思考パターンが、長年人間が積み上げてきたものの集積であるからかもしれない。

そうそう警戒せず、うまく付き合えばいい。
この“見栄を張らない知ったかぶり”も、案外悪くないものかもしれない。

 

 

 

 

なにはともあれ投票には行こう

昨日までとは違ってスッキリ、いよいよ梅雨明け?

参議院議員選挙の選挙戦も中盤に差しかかり、各党の主張が少しずつ見えてきた。

まず思うのは、自民党が今の日本の現状に対して、まったく責任を取ろうとしていないこと。
格差、少子化、外国人政策、いずれも長年の自公政権の無策の結果ではないかと思うのだが、「今こそ、今こそ」と危機感を煽るばかりで、その原因、経緯については一切触れようとしない。
呆れて、空いた口が塞がらない。

 

他の政党の主張はそれぞれに一理あって、興味深くはある。

みんな言いたいことを言うようになり、それもどれもが本格的で、選択肢が増えたのはいいことだ。
たとえば消費税減税について。でも、かつて消費税が導入された時の「そもそもの意義」についての議論がないのは気になる。
消費税が良いことなのか悪いことなのかはわからないが、とにかく、日々の生活で1割分多く払っていることに納得しているかといえば、正直そんな気もしない。

やはり、よく考える必要があるだろう。

 

あと、注意すべきは、「最初は柔らかく見せておいて、後から徐々にハードルを上げていく」というような主張や政策。
「日本人ファースト」も重要ではあるが、日本社会にとって有用な外国人も少なからずいる。
以前書いた記事(国土とか民族とか言語とか宗教とか - こんな気持ちいでいられたら)でも触れたように、日本という国が「何をもって日本なのか」という定義は、歴史の中でも明確でなかった。そんな中で、先住民としての立場から何かを一方的に主張してよいのかどうか、自信がないのだ。

今のアメリカを見れば、その危うさは一目瞭然だ。
「不法移民」とは何か。その定義が曖昧なまま、一方的な排除や差別がまかり通っている。
今日の主張が納得できるものであっても、気づいたときには取り返しのつかない事態になっている、そんな未来はごめんこうむりたい。

 

なにはともあれ、投票に行こう。

 

私にも、あなたにも、一票がある。
それは数万分の一の重みかもしれないけれど、投票しないということは、政治に対して何も言わないと自分で決めてしまうことだ。

誰に投票するかは、それぞれの自由。
でも、投票に行かないという選択は、やはりおかしい。

文明の恩恵は燕も人も

今朝ももやもや

今年も、鎌倉駅に燕が帰ってきた。

過去の写真をたぐると、駅舎が現在の姿にリニューアルされたのは2017年で、もう8年も前のことになる。

駅の大屋根の裏に取り付けられた火災探知機の上に燕が営巣するようになったのがいつからか、はっきりとは覚えていない。

過去のブログを辿ればそんな記事も出てくるかもしれないが、はてなブログに移ってからそういうのを探すのも上手くできない。

それはさておき、以来、この時期になると鎌倉駅が自動改札をひとつ潰すのも、風物詩のひとつになった。

2017年3月22日撮影

鳥獣保護管理法によって、燕の巣を勝手に撤去することはできない。

鎌倉駅もそのあたりは理解していて、営巣の邪魔をするようなことはしない。

火災探知機なので、周囲に障害物を置くこともできず、燕が安心して巣を作れる空間になっている。
縁起がいいとも言われるし、多少の不便も大目に見ているのだろう。

よくよく見ないと見えない

それにしても、駅の構内は夜でも明るい。
おそらく、鳥目といわれる燕たちにも、人工の明るさがあれば夜間でも安心して活動できるのだろう。

 

ふと、そんなことを考えながら眠りについた夜、
明け方に目が覚めて、寝室の中をぼんやりと見回した。

テレビ、エアコン、Wi-Fiスマートスピーカー……。
さまざまな家電のランプが、ぼんやりと点いていた。
それが意外と明るい。

「待機電力をカットしましょう」とよく言われるけれど、
こうして見ると、今の暮らしはランプだらけだ。

一つや二つスイッチを切ったところで、焼け石に水のような気もしてしまう。

ドローンではない

かつては、夜間の電力供給といえば原子力発電が担っていた。
CO₂を出さないという点では、まだ良かったのかもしれない。

しかし今は、その大半が火力発電となり、夜の便利さはそのままCO₂の排出につながっている。

いったん便利になってしまった暮らしを手放すのは、簡単ではない。

それどころか、日々の生活はますます便利になり、
スイッチを切るどころか、新しい“便利さ”を次々に招き入れてしまっている。

燕も人も、文明の恩恵を受けている。
でも、それがこの先どう響いていくのか、
ときどきは立ち止まって考えてみてもいいのかもしれない。

 

水分をたっぷり摂ろう

 

モヤっている

朝から暑い、なにより湿度が高いのに参る。

部屋の空気が重たくて、動くたびに汗ばむ。

かといって、窓を開けても生暖かい空気が動いているだけだ。


頭がぼうっとして、一つ一つのことに集中できない。

それでも、分別ゴミの仕分けだけは済ませ、朝食もきちんととった。
体調が悪いときほど、基本的なことはちゃんとやらないと、ますます崩れてしまう。

頭が痛いことを妻に話したら、すでにスポーツドリンクのボトルを手にしていた。
夫婦そろって、”熱中症にならないように”と声をかけ合い出てきた。

こういうやりとりがするだけで、ちょっと安心する。

 

ところで、年齢によって熱中症になる機序は違うのだろうか。

子どもは体温調整のしくみが未成熟。
高齢者は、体内の水分予備量が少なくなっていて、細胞レベルで干からびやすくなっているのかもしれない。

そう考えると、単なる「暑い」というだけの話でも、人それぞれ対策も異なってくる。

 

7月のこの高温多湿期を抜けたら、少しは楽になるのだろうか。

いや、それまでに体がもつかどうか、ちょっと心配になる。

というわけで、今日は頭もよく働かないので、この辺で。
と言いたいところだが、これから仕事だ。

 

一度はほぼ枯らしてしまったシンシギョク(クレマチス

本能的に知っている、ってすごすぎる

いよいよ神奈川にも熱中症警戒アラート

昨日、庭仕事をがんばったせいだろうか。
昨夜は久しぶりによく眠れた。

とはいえ、朝早く目が覚めるのはいつもと同じ。
しかも今日は仕事の日だ。

いったん手を洗いに立ち、寝床に戻ってしばらくまどろむ。

明け方、東の空が白みはじめるころ、小鳥たちの囀りが聞こえてくる。

鶯、ガビチョウ・・・いろいろな種類がけっこう大きな声でしゃべっている。
けれど不思議と、それが眠りを妨げることはない。
アップルウォッチに起こされるまで、うとうとと過ごす。

 

小鳥の囀りというのは、つまり「ここに小鳥がいますよ」というサインでもある。

そして、小鳥というのは“安全な存在”だから、
その声を聞いても眠気が邪魔されないのだろう。

もちろん「朝だよ」というシグナルも込められているのかもしれないけれど、
それはまた別の話だ。

 

「安心」という感覚。
動物たちは、一体いつからそれを身につけているのだろう。

たとえば鳥のヒナは、生まれて最初に見たものを“母親”だと認識するという。

それはもう「本能的」としか言いようのない行動だ。

 

本能的な行動の代表としては、よく三大欲求が挙げられる。
食欲、性欲、睡眠欲。
誰かに教えられなくても、自然にそういう行動をとるようになる。

それって、冷静に考えると本当にすごいことだと思う。

 

卵子精子が出会い、核酸が適切に組み合わさって新しい命になる。
そこまでは、ある程度理屈で説明できるかもしれない。

でも、生まれた瞬間にすでに“生きる術”をある程度備えているということ。
これが、なんとも驚異的だ。

馬は生まれてすぐに立ち上がるし、
魚はすぐに泳ぎはじめる。
人間だって泣き、手足をばたつかせる。

 

「なんのために?」という問いすら必要としない、
ただ生きるための、“本能的”な行動。

生命の神秘とよく言うけれど、
この“本能”という仕組みもまた、生まれながらに知っていることの、すごさ、不思議さを示している。

 

庭の手入れ

暑さにも少し慣れてきたか

早起きしても6時過ぎでは遅くて、もう暑い。

人間はなんとかなるが、犬のアンには暑い。

散歩から帰ってきたらもうヘロヘロだった。

鶴岡八幡宮の源平池は紅白のハスが満開

鴨もハス見物

帰宅してから朝食を食べたら大谷が投げている。

結局2連敗となるドジャースアストロズのゲームを横目で見ながら家に入れっぱなしで元気のないウンベラータをベランダに出し、ついでに他の子達も手入れした。

パンパスグラスがたくさん咲いた

妻と二人でやっていると、次から次へと気がつくことが多く、結局夕方まであれをやりこれをやりで1日すぎた。

プラタナスの誘引

数年来の懸案だった、ベランダのオーニングのないところにプラタナスを誘引もセットできた。

果たしてうまくいくか。