こんな気持ちでいられたら

ロートル病理医。地味な医者ですが、縁の下の力持ちでいることに誇りを持っています。

この場所にいるというだけでも大変

美しい朝が続く

WEBでの勉強会があり、私もそこで少しだけプレゼンをした。

その中で疑問に思う結果があり、そのことに触れたところ、参加していたエキスパートが、たちどころに解説してくれた。

その解説はわずか10秒ほどで、そこで使われた専門用語は五つほど。

だが、それぞれの定義を理解し、組み合わせて判断するには相当な知識が必要だった。

深いレベルで理解していれば、自分自身で解決できたはずだったということに、言われてみてはじめて気づいた。

 

情けなかった。

 

自分では “理解不能” なものとして片付けたかったのだが、実際には十分 “理解可能” だった。

 

その話を知り合いの病理医にしたら、「赤の女王仮説」を教えられた。

 

「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」

 

鏡の国のアリス』に出てくる言葉だが、私に置き換えるなら、

 

「病理医を名乗る限り、医学知識をアップデートし続けなければならない」

 

ということになるだろうか。

先日あったクラス会で、勉強が大変で辛い、などと泣き言を言っていたが、勉強しないでの泣き言では、ただのポーズだ。

医者の知識は、そのまま患者さんの利益に結びつく。医者が医者であるには、全力で走り続けるほかない。

ある意味、走れなくなったら第一線からは退くべきということ。

まあ、恥をかきながらでも進歩できてよかったと考え、懲りずにしばらくは走り続けることにしよう。

 

 

人の悪口なんか言っていると自分が損する

 

大通公園は冬支度


午前中、札幌で仕事。

先日雪が降ったので、大丈夫か心配だったが、特に問題なくよかった。

昨日のうちに札幌に入り、夜は札幌にいる病理医仲間二人と食事をした。

私が入っている研究会の代表世話人と、少し年下の病理医。会の現状と将来を語り合った。

こういう話をすると人の噂話なんかになってしまいには悪口なんてこともあるのだが、二人とも人の悪口を言うような人ではなかったのが、何よりよかった。

考えてみると、人の悪口なんていうのは、言っている時間そのものがもったいない。

そんな暇があったら、楽しく夢を語り合った方がいいに決まっている。

悪口を言うような人と一緒に悪口を言うということは、自分もその輪の中に入っているということになる。

そして、その輪は間違いなくネガティブなもの。

負のパワーの中に、自分から足を踏み入れているのと同じだ。人の悪口に流れそうになったときは、自分でその方向へ向かわないようにしないといけない。

そうしないと、結局損をするのは自分自身となる。

 

いつの間にか自分が少数派になっていた

夜中の間に雨が

2030年には65歳以上の高齢者が29.4%と全人口の三分の一近くに迫る。

数字の上では結構なボリュームゾーンではあるけれど、実際に出歩いている人となると、そう多くはない。

朝晩の電車などは、勤め人や学生など自分よりも年下の人がほとんどで、高齢者は少数派だ。
中学生の頃から通学に電車を使っていたから、かれこれ50年近くになる。
いつのまにか自分が少数派になっていたことに、最近ようやく気がついた。

自分こそがボリュームゾーンにいると思っていたが、それはもはや遠い昔のことだ。

 

こうなると、電車内での立ち居振る舞いも少し注意しなくてはならない。
というのも、若い人たちの動きが読めないのだ。

昔はヘッドフォンで音楽を聴くくらいだったが、今やスマホで、全員がそれぞれ全く違うことをしている。
そのマナーもまちまちで、私の尺度から見れば「普通」の人もいる一方、まったく違うマナー感覚の人もいる。

倫理観の変容も著しい。
とくにオレオレ詐欺のあたりから、「年寄りの金を取っても悪くない」という空気が生まれ、さらには “あるところから取って何が悪い” という感覚すら広がってきたように思う。

 

親子ほど、いや、それ以上に歳の離れた人たちの考えなど、自分の親子関係を振り返っても到底理解できるものではない。
ましてや、それが血のつながりのない他人同士であったら尚更だ。

だから、電車で隣の若者がゲームに夢中で肘を押し付けてきても、こちらは縮こまっているしかない。
まあ、私のほうもスマホを覗き込んで語学アプリに熱中しているのだから、その点についてはおあいこかもしれない。

 

現役生活はもう少し残っている。
できれば平穏無事に過ぎ去ってくれればいい、そんな守りの気持ちが強くなってきたのは、年の功というより、年のせい、ということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

人の思考は玉石混淆

寒そう

今朝の鎌倉は6度。
娘のいるニューヨークと同じだ。
「12月並みの気温」とのことで、すっかり寒くなった。
車窓から見える紅葉が鮮やかだ。

 

夜、床に就くと、いろいろな考えがめぐる。
それらは玉石混淆で、良いものもあれば、ガラクタのようなものもある。
ブログのネタに使えそうなものから、一瞬ののちには忘れてしまいそうなもの。
逆に、考えだすと止まらないものもある。
夢の延長のようなものもある。

夜空は深く青い

枕元にノートを置き、いい考えが浮かんだら書きつけておく・・・そんな思考法もある。
ただ、一度スマホでそれをやったとき、かえって目が冴えてしまい、続かなかった。
プロの作家や学者であればそれも習慣にできるのだろうが、日々の業務をこなすので精一杯の病理医ブロガーにとっては、まず睡眠が第一だ。

却って眠れないこともままあるが。

 

思考というのは宝の山か、それともゴミの山か。
ノーベル賞につながるような素晴らしい発想がある一方で、犯罪的な思考もある。
その境界は明確だが、一部には良いのか悪いのか判然としないものもある。
夢の中で遭遇するのは、そんな思考の一つかもしれない。

 

いずれにせよ、いろいろなことを深く考えることは大切だ。
軽挙妄動はつつしみ、思考をひとつひとつ確認しながら積み重ねていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

生きていたら当てがはずれるのは当たり前のこと

一日中曇りの予想

夜中のうちに雨が降ったみたいで、写真を撮ろうとベランダに出たらデッキは濡れていた。

夜のうちに干そうと物干し竿にかけてあったシーツはびしょびしょで、それをみて当ての外れた妻の悲鳴があとで聞こえた。

おまけに今日は一日中曇りの予想で日中の挽回も効きそうにない。

家でのことだから他人事ではなく、困ったものだ。

妻が昨夜シーツを干そうかと言ったとき、「まあ大丈夫じゃない?」と天気予報も確認せずに適当に返事をしたので、私にも半分くらいは責任がある。

当てが外れたという点では、私も同じだ。

 

「当てがはずれる」とは、予想や期待が裏切られ、物事がうまくいかないことだ。
そこには何かしら“相手”がいて、自分ひとりの問題ではない。

「期待はずれ」とも同義で、期待する相手が人であれ自然であれ、自分の思い通りにならなかったときに「当てがはずれた」と嘆くことになる。

 

妻は夜になってシーツを干すという家事をこなしてくれた。

夜中のうちは雨が降らないだろうというそのささやかな期待を夜半の雨が裏切ったということになる。

この場合、誰も悪いことはしていない。

神様も妻に意地悪をしようと雨を降らせたわけではない。

某学会の仕事で、分科会のメンバーにアンケートを回しているのだが、その返事が一向に集まらない。

これもまあ、当てがはずれた、ということだろう。

メンバーへの過度の期待はいけないのだ。


生きていくうえで、期待など裏切られて当然、そう思っていたほうが当てがはずれた時のショックは少ないから、まあそうしたほうがいいだろう。

それぞれの社会は狭くなったのか、より広がったのか

朝が寒くなってきた

最近、自分の人間関係が、ずいぶん狭まったものだとよく感じる。

職場には、部下となる病理医が一人、検査技師が四、五人いる。
だが、その病理医とはもう二年のつきあいになるが、世間話も尽きて、今は仕事の話以外ほとんどしない。
互いの価値観の相違もあるので、仕方のないことだ。

 

検査技師とは作業エリアも違うので、会話はさらに少ない。
多くは二十代で、話題も違う。
なにせ親子ほどの年齢差だから、無理もない。

 

このほかに、私が日常的に接する人は妻を除いていない。
妻はもちろん、私の最大の理解者であり、話が尽きることもない。

仕事を終えたら、まっすぐ家に帰るし、妻のいる我が家は大好きだ。

私と違い彼女は人懐こく、地域には多くの知人がいる。
友人とまで呼べる人は少ないかもしれないが、それでも交際範囲は私よりはるかに広い。

 

私の社会は、いつの間にかとても狭くなっていた。
なんでもメールやSNSで済んでしまうようになったことも、一因だろう。
気になることがあったら電話よりメールの方が楽だし、FacebookInstagramを開けば、気になる人の近況が“無理やりにでも”わかる。

このブログではそこまで詳細は伝えていないが、

 ”まあ、コロ健も、元気にやっているようだ”

くらいのことは、なんとなくわかる。

 

人と人とのつながり、すなわち社会は、ある意味で狭くなった一方、大きく広がったともいえる。
社会が狭くなったと孤独を感じるか、広がった電脳社会の中に新たな自分の社会を構築できるかは、人それぞれの特性にもよるだろう。

ただ、私の場合はやはり、人と人との直接の関わりがあってほしいと思う。
それは、電脳化社会以前に生まれ育った旧人類であるせいなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

人間もらいっぱなしはいけない

朝は雲が多い

頼み事をしてのメールの返事が、なかなか来ないと心配になる。

単に返事を忘れているのか、それとも先方は私の依頼を断りたいのかもしれない。
ほかにも理由はいくらでもありそうだ。PCが壊れているだけかもしれない。

私だって、こんな面倒なことを好きでやっているわけではない。
行きがかり上、仕方なく手配しているボランティアだ。

 

このあいだ、教室の後輩に論文の査読を頼まれた。

彼の知り合いを探したけれど、みんなに断られた挙句、最後に私にたどり着いたらしい。
ドラフト下位でも指名されたら引き受けなくてはならないし、何より可愛い後輩のためだ。

ただ、論文の査読はボランティア。
雑誌の査読者一覧に名前が載るというだけのために、限られた時間の中からやりくりし、少ない知力を絞り出さなくてはならない。
もっとも、おそらく彼もその雑誌の編集を手伝っているのだろう。
つまり、彼もまたボランティアのはずだ。

昨夜の月の出。星が美しかった。

人間社会はギブ・アンド・テイクが基本だ。

わかりやすい言い方として「ノー・ワーク、ノー・ペイ」がある。
でも、ボランティアは働いても報酬はない。

「ワーク、ウィズ ノー・ペイ」だ。

 

とはいえ、これまで生きてきた中で得てきたもの、いただいてきたことを思えば、何かに貢献できるというのは、ご恩返しにほかならない。
決して「損だ」などとは考えるべきではない。

人間、もらいっぱなしは許されない。
死ぬまでに、もらったものを返さなくてはいけない。

そして、プラスマイナスゼロになったら上出来。
逃げ切ろうなんて考えたら、きっとばちが当たるに違いない。