こんな気持ちでいられたら

ロートル病理医。地味な医者ですが、縁の下の力持ちでいられることに誇りを持っています。

人間社会は何を引き換えとして”発展”しているのだろうか

このあと晴れの予想が大はずれ

私の通勤で使う病院行きのバスに、最後に乗りこんだときのこと。
小学校に上がるかどうかというくらいの子供が、椅子に座ってタブレットで一心不乱にゲームをしていた。

 

少し混んでいて、お年寄りや身体の不自由な人が何人か立っていた。
もちろん、その子だってこんな時間に病院行きのバスに乗っていたのだから、受診なのかもしれず、席を譲れなどという気は毛頭ない。
そもそも子供は電車やバスでは、安全のために座っているべきだと思う。

ただ、その子が周りの状況にまるで無頓着だったのが気になった。

そして、お年寄りや身体の不自由な人の存在を知らないまま、バスを降りて行った。

ショッピングモールで、乳母車に乗った子供がタブレットを与えられ、それを覗き込んでいる姿もよく見る。
そういう子供は、どんな大人に成長するのだろう。

 

そういったもの──ガジェット──がこの世界に存在しなかった頃、すなわち私が中学生ぐらいまでは、周囲のすべてが感じられた。

たとえ新聞や本を読んでいても、誰が立っていて誰が座っているかは嫌でもわかった。
年寄りや身体の不自由な人が立っているのに、自分が座っていたら気恥ずかしく思ったものだ。

ところが、やがてウォークマンが出現して耳が塞がれ、スマホによって視覚も奪われた。
生まれたときからタブレットの中の世界に没入して育ったら、周りの世界を感じるなんてことは、もう一生ないのではないだろうか。

もちろん、大人である私だって、こういったガジェットにとらわれて、周囲に無関心なことがある。

 

こうして、人間社会から社会性というものが失われていくのだとすると、人間は何を引き換えとして”発展”しているのだろうか。